今日4月28日は日本でiPad2が発売された日である。
当初の予定では3月25日だったそうだが、震災の影響で今日に延期となったのである。 私の会社の同僚にも早速iPad2を購入した人が2人いた。 その2人の中の1人は、自慢したかったのかiPad2を持ってカフェに行ったが、周囲の人はまったく無反応だったとのことだった。 その人が“いろんなアプリを入れてしまうかも”と言った時、私はなぜかiPhoneのアプリにいろいろおもしろいものがあるという話を思い出した。 その中にそろばんがあったということを話したら、“そういうアナログなものもあるんだね”と言ってきた人がいた…。 この人は、そろばんはデジタルであることを知らないようだ…。 ちなみに私はiPadどころかiPhoneも持っていないので聞いた限りでしか知らないが、アプリのそろばんは振ったら0になるとのことである。 #
by utmich
| 2011-04-28 23:38
| 出来事
私はずっとほしいと思っていたものがあった。
それはレーシングドライバーのSebastien Bourdais使用モデルのめがねである。 2007年のシーズン途中にScuderia Toro Rossoのテストに出ていたBourdaisを見て、 もしかして似てるかも… と思いこんでしまったことがきっかけである。 2008年にBourdaisが掛けていためがねがTAG HEUERのものであることを知った私はBourdais使用モデルが何なのかを調べた。 以前ネット通販で花粉症用のめがねを買ったところがTAG HEUERのめがねを取り扱っていることを知り、その店にメールで問い合わせたところ、 その当時は日本には入荷していないモデルだったとのことだった。 入荷予定は2009年の春ごろの予定だった。 私は2009年の春になるのを待つことにした。 だが、2009年の春を過ぎても、入荷したような情報が入ってこなかった…。 そして、2010年の2月ごろだったと思う、 私はBourdaisモデルのめがねのことをふと思い出し、品番で検索をかけてみたらいくつかの店が引っかかった。 その中の1つの店に行ってみたが、そこに置いてあったものは2008年に使用していた赤バージョンのほうだった。 私は2009年に使用していた黒バージョンのほうが欲しかった。 さらにしばらく経った2010年10月ごろ、あるネット通販に載っていたことを知った私は早速注文することにした。 だが、入荷待ちのためサプライヤーに連絡しているということが何度も続いていた…。 すぐに入手できたら私はあのめがねをかけて35歳最後の日にF1を見たかったのだが…。 そして、今年の2月、花粉症のレーザー治療を受けた私は、帰りに以前ネット通販でめがねを買ったところの店に直接向かい、だめもとでBourdais使用モデルのめがねが置いてあるかどうかを聞いてみた。 店の人が在庫があるかどうかを問い合わせたところ、残り1つとのことだった。 このチャンスを逃すと多分もう入手できないと思った私は取り寄せてもらった。 当然、ネット通販のほうはキャンセルした。 こうして、私は3年間ずっと欲しかっためがねをやっと入手することができた。 ![]() ![]() ![]() 私はめがねをかけてみたが、 Bourdaisに全然似ていなかった…。 当然と言ったら当然だろうが…。 でも、できることなら… BourdaisがF1にいるうちに入手したかった…。 #
by utmich
| 2011-03-27 09:32
東北地方太平洋沖地震が起こった3月11日、私UtahMichiganはK県K市K区(あ、該当するところが1つしかない…)で仕事をしていた。
仕事中に同僚が“なんか、揺れてないか?”と言ってきたので、揺れているかどうかに神経を集中させようとしたときにだんだんに揺れが激しくなってきた。 激しい揺れは5分ほどは続いたと思う…。 揺れが治まった時、私はネットで地震について調べてみて “震度7が出たの!?” と驚いた。 当然場の雰囲気は一転した。 特に東北地方に家族や知人の多い同僚が一番驚いた。 会社にあった物はさほど倒れたりはしなかった。 だが、S県K市にある私の自宅の部屋がどうなっているのかが気になった。 不安定な状態で置いているものが結構多いからかなり物が崩れている状態であるに違いない、と思った。 その後余震が何度も続いた。 中には縦揺れだったこともあった。 急遽会社のテレビをつけておいた。 といっても画面を見ながら仕事をするだけにもいかないので音声だけを聞いている状態だった。 だが、ジングルが聞こえたとき、ほとんどの人がテレビの前に駆け付けた。 もう、仕事どころではなくなった…。 電車が動かなくなったため自宅に帰ることができなくなった私は、会社近くのホテルを探すことになった。 ちなみに宿泊費は会社が負担してくれることになった。 だが、どこのホテルもサウナもネットカフェもビデオBOXも満室だった…。 駅から離れた所だったら望みはあるかも、と思いやっと満室でないサウナを見つけ、私はサウナで1晩過ごすことになった。 翌日、私はやっと自宅に帰ることができた。 だが、思った通り以上に部屋の物が被災地並みにかなり散乱していた…。 13日、私は都内B区(これも該当するところが1つしかない…)の会社で夜勤だった。 会社に行く時は特に問題はなかったが、自宅に帰るまでが大変だった。 電車の動く区間が制限されているため私の自宅の最寄り駅まで電車が動いていなかった。 幸い、他の電車はちゃんと動いていたので私は別ルートを乗り継いでなんとか自宅に戻ることができた…。 実を言うと、私UtahMichiganの実家は被災地の近くにある。 2008年に起こった岩手・宮城内陸地震では震度4、同年に起こった岩手県沿岸北部地震では震度5強、 そして今回の東北地方太平洋沖地震では震度4を記録していた。 だが、実家のほうから私のほうに電話がまだ来ていない。 以前、私が“回線がパンクする原因になるから電話してくるな!”と釘を刺しておいたからなのだろうか…。 それより、今回の地震で震度6強を記録した所に住んでいる姉が心配だ…。 私UtahMichiganにとって姉は大きな存在である。 姉がいなかったら私はF1フリークになっていなく、ただでさえつまらない人間である私はもっとつまらない人間になっていたかもしれなかった。 姉が無事であることを祈る。 実家の父も無事であってほしい。 私の仕事や趣味にいろいろ文句を言ったり嫌な反応しかしない母はどうでもいいが…。 #
by utmich
| 2011-03-15 23:26
| 出来事
私は今年の3月ごろのことを書こうとずっと思っていた。
だが、ずっと書かないままでいた…。 今頃になってこのことを思いだしたので書くことにしよう。 今年の3月ごろ、その当時いた会社で社員旅行をすることとなった。 その社員旅行は5回に分けて行う形であり、私はその中の1回目に行くこととなった。 今回私のいたI支部からは私UtahMichigan1人だけが参加することとなった。 当日、集合場所に着いたときは私以外の参加者全員が待っている状態だった。 Y本部からはMIM、YAM、HOS、MITそして幹事TANの5人、 T支部からはSAKの1人が来ていて、仕事帰りに直行したため1人だけスーツを着ていた。 S支部からはSAIとFUJの2人が来ていた。FUJはなぜかレンズの入っていないめがねをかけていた。 現地に向かう電車の中で、みんなは出発駅で買った弁当を食べながら仕事の事を話したり、今夜どうするかなどの事を話していた。 だが、私はみんなが話していることを聞くことに専念しているような感じだった。 現地に着いた一行は滞在するホテルに向かった。 ホテルでは3部屋が割り当てられていた。 つまり1部屋3人ということだった。 幹事TANはI支部長から私UtahMichiganが煙草の煙が嫌いなことを聞いていたようで、部屋を割り当てる際に1部屋だけ吸わない人を入れるようなことを考えていた。 私が3部屋の中の1つの鍵を受け取りその部屋の中に入って私はしばらく休んでいた。 だが、私以外の8人全員は1つの部屋にいたようだった。 夕食の前に一度温泉の大浴場に入ったが、その間他のメンバーは誰1人と入ってこなかった…。 私が温泉に入っている間にSAIとFUJが私の事を探していたようだった。 私が温泉に入っていたことを知った時は2人は納得していたような感じだった…。 温泉から出た私は、また1人でずっと部屋の中で待っていた。 その後、夕食の準備ができたことを聞いて私は宴会場のほうに向かった。 後にほかのメンバーも来た。 テーブルの片側に4人、もう片側に5人という形で座り、私は5人いるほうの真ん中の席に座ることになった。 私の左に座っていたMIMが私にトマトが食べられるかどうかを聞いてきた。 MIMはトマトが食べられない人だった。 私はトマトが食べられる人なのでトマトを受け取ることにした。 そのお返しとして私の大嫌いなカニを渡そうとしたが、MIMはすぐに受け取らなかった…。 しばらくすると、宴会場の中にコンパニオンが4人入ってきた。 コンパニオンがみんなが座っているところに間に入ってみんなは楽しそうに話をしていた。 ちょうど私のいるところを境界線にして完全に話が2つにわかれている状態だった。 私が一度席を立ち、その後戻ってきたときに私の右にいた幹事TANが “そういえば、コンパニオンの人たちがMichiganさんの事を好印象に思っていたよ。” というようなことを言っていた。 本当かよ?と思った私は実際に聞いてみたらどうやら本当だったようだ。 といっても、その時着ていたシャツにちゃんとアイロンがかかっているようなことだったようだ。 この時私はネット通販で買ったBRIDGESTONEのシャツをボタンを締めない状態で着ていて、中にもBRIDGESTONEのTシャツを着ていた。 そのシャツにはアイロンはかかっていないし、形態安定というわけでもなかったのだが… ちなみに外にいたときに着ていたジャケットもBRIDGESTONEだったが、靴はBRIDGESTONEではなく元祖空気入りタイヤメーカーの空気入りシューズだった。 また、着ていた服の色はすべて黒い服だった。 タイヤの色も黒いことから、もしかしてパンツも黒ではないかと思われたため、私はSAIにズボンのベルトを外された。 ベルトを外したSAIは私のズボンを見ると “あははは…、ちゃんとボタン閉めてるー…。” と言ってそのまま私の前から離れて行った。 って、ズボン脱がさないのかよ!? ちなみにこのとき穿いていたパンツも黒だった。 そして時間が過ぎ、コンパニオンのほうも時間切れとなってきたとき、幹事TANからある3つの提案が出された。 1つはこのまま部屋に帰って寝る。 1つはコンパニオンを延長する。 そしてもう1つはここでコンパニオンとお別れして新しい出会いを求めて移動する。 ということである。 いろいろ話し合った中、このことはMIMに一任されることとなった。 悩みに悩んだ末MIMが決めたことは、ここでコンパニオンとお別れして新しい出会いを求めることだった。 MIMはコンパニオン4人に別れのあいさつをしに行った。 HOSとSAKがコンパニオンの携帯番号を手に入れたと喜んでいた。 HOSが早速その番号にかけてみたら、コンパニオンを派遣する会社の携帯電話だったことを知ってHOSはがっかりした…。 ホテルを出た私たちは電車であるところに移動した。 移動先のほうでいいキャバクラがあるようなことを事前に調べていたMITが駅のほうに送迎用の車を呼んだ。 私たちはその車でピストン輸送する形でキャバクラのほうに移動し、キャバクラで2次会を行うことにした。 そのキャバクラにはカラオケがあったが、全員が歌うことはなく、おもに私とHOSが歌っていた。 歌っているうちに私は今までやった中でほぼ毎回のように受けていたことをしたが、今回は全然受けないどころか幹事TANに止められてしまった…。 こんなにも受けなかったのは初めてのことだったためかなり落ち込んだ…。 しばらくすると、幹事TANがテキーラを注文し、メンバー1人ずつにそのテキーラを渡していった。 私は口に含んだ瞬間あまりにも熱かったためまったく飲まずに全部出してしまった。 だが、そんな中YAMが女性に乗せられたのかテキーラを立て続けに3杯飲んでしまった。 そしてしばらくした時YAMは気分が悪くなってしまい、吐きながらトイレに行っては席に戻りの繰り返しになってしまった…。 そして、私とMIMとYAMとSAIの4人が先にホテルのほうに戻ることになった。 送迎用の車で最寄り駅のほうに送ってもらったが、すでに電車は無くなっていた。 その時またYAMは気分が悪くなり、トイレを探すこととなった。 トイレは駅の改札の中のほうではないかと思っていた人がいたが、改札の中に入らなくても近くにトイレがあったことを知っていた私はそっちのほうに案内することになった。 MIMとSAIに肩を貸している状態で移動しているYAMが着くまでにまた吐きだしてしまうのではないかと心配していたが、YAMはなんとか持ちこたえた。 YAMがある程度落ち着いたところで私たち4人はタクシーでホテルに向かった。 ホテルに着き、部屋に入った時YAMはそのまま布団に倒れそのまま寝たようだ。 そして、私は深夜の露天風呂に行った。 ちなみにこのホテルでは男性が露天風呂を利用できる時間帯は深夜であり、昼間は女性しか利用できない時間になっている。 翌朝目が覚めた私は早速大浴場のほうに向かった。 せっかく温泉に行ったのだから入れるうちに入っておこうという理由ではなく、 露天風呂のほうにあった黒糖のボディーソープのにおいが気持ち悪かったからそれを落とすためである。 その後朝食の準備ができたことを知った私は宴会場のほうに向かった。 昨晩の夕食の時のような盛り上がりはなく、一転して静かな感じで食べていた。 また、このとき料理を出していた人が私を指して “この人はさっき温泉に入っていたのですよ。” と言っていた。 大浴場に向かう時にすれ違ったからである。 ちなみにこのとき出ていた味噌汁は昨晩の料理に出ていた伊勢エビの殻でだしを取っていた。 チェックアウトまでの時間の間に私はI支部の人たちに何か買っておこうと思っていた。 そして私はあるお菓子を買うことにした。 そのお菓子の小さいものがホテルの部屋に置いてあり、食べてみたらかなりおいしかったのでみんなにも、と思って買うことにした。 だが、このお菓子、おいしいのはいいが、どうしてもあの事を思い出してしまう…。 ホテルをチェックアウトした私たちは電車の時間まで余っている2時間をどうするかを考えていた。 幹事TANが事前に買っていた切符の特急券を払い戻すようなことを試みていたが、いろいろ問題があったようで結局払い戻すことはできなかった。 でも、時間はかなり余っていた。 そこで、電車の時間まで駅前にあるパチンコ屋で時間をつぶすことにした。 私は時間までパチスロをすることにした。 一時はBIGを引いていたが、結局は-6000円だった…。 中には近くのラーメン屋に移動して時間を潰していた人もいた。 電車の時間がだんだんに近づいてきたが、HOSと幹事TANがまだ戻ってきていないままである。 2人はいつ戻ってくるのだろう、とと思いながらずっと待っていたが、なかなか2人が戻ってこない。 そして出発5分前になっても2人が戻ってこないままなので私たちは2人を置いて7人で帰ることにした。 あのあと2人はどうしたのかは私は知らないままでいる…。 最後に7人で帰ったことをI支部長に言ったら “TAN、ひどいな…” と言っていた。 注・当時のことをあまりよく覚えていないため、人が違うなどいうことがあるかもしれません。 #
by utmich
| 2010-12-27 04:20
| 出来事
この度、私UtahMichiganは36歳になりました。
35歳のときはまたしても失業し、その後再就職できたのはいいのですが、 収入がさらに3分の2に減りました… 2年前のおよそ半分です…。 それでもなんとか生きていっています…。 こんな私UtahMichiganですが、これからも宜しくお願いします。 #
by utmich
| 2010-11-09 02:49
| 独り言
この度、私UtahMichiganは諸事情により6月10日をもって会社を辞めることとなりました。
正社員としては4度目の失業となります。 (前回と前々回は正社員ではなかった。) そういえば、私は前の会社に入って以来35歳の誕生日以外にblogを書いていなかった。 いろいろ書きたかったことがあったが、書く気が起きなかった。 ただ単にあまりにも疲れていた、という理由でしたが… せっかくだから、ここしばらくは今まで書きたかったことを思い出して書くこととしよう。 でも、それは後日ということで。 いろいろ書きたかったことといっても、いくつあったかな… 今のところ、2009年のことは1つも思い出せていない… #
by utmich
| 2010-06-13 00:21
| 独り言
この度、私UtahMichiganは35歳になりました。
34歳のときは、当時の会社の売上が異常に低下した上、不自然な財政難による突然の失業があったりしましたが、現在は新しい会社で仕事をしています。 収入が3分の2に減りましたが、なんとか生きていっています。 これからも私UtahMichiganを宜しくお願いします。 #
by utmich
| 2009-11-09 20:09
私は今年のF1がどうなるかいろいろ心配である。
特に、今年のルールに則ったいびつな形のマシンによるタイや幅と同じくらいのフロントウィングで無事にスタートできるのかが心配である。 開幕戦でPole Positionを獲得したのはなんとBRAWN GPのButton、また、チームメイトのBarrichelloが獲得したのでBRAWN GPがフロント・ロウを独占した。 また、意外にも昨年のワールドチャンピオンのMcLARENのHamiltonが予選16位、チームメイトのKovalainenが予選12位とMcLARENらしくない位置にいた。 だが、Hamiltonはギヤボックス交換ペナルティ、そしてTOYOTA2台がルール違反により予選除外となったため、Hamiltonは18番グリッド、TOYOTA2台はピットスタートとなった。 そして、58周で行なわれるF1オーストラリアGP決勝レースがスタートした。 2番グリッドのBarrichelloがスタートに失敗し7位に落ち、さらにRBRのWebberと接触してしまい、BMWのHeidfeld、Kovalainen、FORCE INDIAのSutilが巻き添えを受ける破目に遭った。 そして、元凶のBarrichelloのほうは無事だった。 Heidfeld、Sutil、Webberはピットでマシンを修復してコース復帰したが、Kovalainenはそのままガレージに入ってしまった。 これにより、Kovalainenは2009年初のリタイヤとなった。 10周目にBarrichelloが今度はFERRARIのRaikkonenと接触してしまった。 Barrichelloはフロントウィングの翼端板を壊しただけで済んだが、Raikkonenはタイヤにダメージを負ったためRaikkonenはピットに入る破目に遭った。 だが、ちょうどその頃、タイヤ交換のためにピットに入るマシンが出だしたため、予定通りに近かったのが不幸中の幸いだったかもしれない。 18周目にWILLIAMSの中嶋一貴がウォールに当たりマシンを止めてしまった。 マシンが半分以上コースにはみ出す形に止まったため、Safety Carが出ると見て続々とマシンがピットに入った。 そして、今年初のSCがコースに入った。 今年から、SCが出た時は隊列が整うまでピットインするとペナルティというルールはなくなったが、最低タイムが設定されたためいつもより低速で走らなければならないことになる。 SCが出ているとき時刻は現地時間17時40分。 このとき日が傾きだし、路面温度がタイヤの最低作動温度ぎりぎりに下がりだした。 そして、SCがピットに戻り25周目にレースが再開された。 とその時、RENAULTのPiquet Jr.がWILLIAMSのRosbergと接触してしまいったために外に弾き飛ばされてしまったように見えたが、実際はブレーキが利かなかったことが原因だったようだ。 温度低下も原因の1つと思われる。 その翌周の26周目に12位を走っていたRENAULTのAlonsoがKERSの力を使ってTOYOTAのGlockを抜いた。 AlonsoはKERSを使いこなせているようだ。 43周目に8位を走っていたRaikkonenがウォールに当たってしまった。 Raikkonenはピットに戻ることができ、マシンを修復してコース復帰した。 47周目にMassaが左前を気にしながら走っていた。 その後Massaはガレージに入った。 51周目に3位を走っていたBarrichelloがピットインした。 コース復帰した時はRosbergの後ろの5位だった。 だが、54周目にRosbergを交わして4位に上がった。 そのRosbergは55周目にAlonsoにも交わされた。 56周目に3位を走っていたBMWのKubicaが2位を走っていたRBRのVettelを交わそうと試みた。 ところが、2台が接触してしまい2台ともマシンが大破した。 そしてさらにSCが入ることとなった。 この時すでに残り3周となっていた。 そしてSCが出たままレースが終了し、Buttonが2006年ハンガリーGP以来2度目の優勝となった。 2位にBarrichelloが入り、BRAWN GPの1-2 FINISHとなった。 そして3位には予選除外のためピットスタートだったTOYOTAのTrulliが入った。 4位Hamilton、5位Glock、6位Alonso、7位Rosberg、そして8位に今回がデビュー戦のSTRのBuemiが入った。 それにしても、BRAWN GPは本当にすごかった。 HONDA時代の昨年は空力データのミスのため2009年に向けての我慢の年だったそうだが、まさかここまですごいことになるとは… HONDAの撤退によりシーズンオフの間は買収先を探しているうえ資金難ということもあってまともにテストに力を入れられなかっただろうと思われる中、開幕戦で1-2 FINISHというのは本当にすごかった。 果たしてこのまま突っ走っていくのだろうか? 次回F1マレーシアGP決勝レースは日本時間4月5日18時スタートです。 ちなみに私は仕事の都合により、以降リアルタイムでF1を見ることができなくなってしまいます… 今の会社は日曜日はいつも以上に忙しいとだけ言っておこう。 というわけで私は今から仕事に向かうとしよう。 #
by utmich
| 2009-03-29 17:07
| F1
先日、私は某レーシングチームのリリースを読んでいた。
そこには、今年使用されるマシンのカラーリングが2台別々に載っていた。 2台別々ということは、どこか違う個所があるのではないか、と思い、私は2つを見比べていた。 すると、基本的なカラーリング自体には違いはないが、どちらか1台にはもう1台にはないスポンサーロゴがいくつかあることがわかった。 そのスポンサーロゴの部分を拡大してみたら、なんとびっくり! 片方のマシンにしかないスポンサーロゴの下隣にある両方のマシンに付いているロゴはなんと… “これ、私が一番最初にいた会社じゃないか…” 私はあの会社に恨みがある。 もし今の時代に上司が当時のままの考えの持ち主だったら私は確実に会社を訴えていただろう。 ちなみに私は会社側の都合により1月いっぱいで会社をクビになる破目に遭ったため、現在失業中である。 #
by utmich
| 2009-02-28 10:06
| 独り言
新年明けましておめでとうございます。
さて、会社で仕事をしながら年を越して2009年になった直後、私達は社長の計らいで焼肉屋に向かった。 途中0時15分頃、駅前の交差点を通過しようとしたとき、人々はかなり盛り上がっていた。 中にはなぜかOBAMAコール、その後Yes, we canコールをしていた人たちもいた。 私達は盛り上がっている人たちの中を通るときにはぐれることなく無事に通過した。 その後、6時40分頃のことだった。 会社に残っていた人たちの中の1人が“初日の出を見よう”と私達を誘った。 というわけで、私を含め4人で初日の出を見にくことにした。 だが、初日の出が見られるまで残り20分、果たしていい場所が見つかるのだろうか、と思い探していた。 “もう、出てるんじゃない?” “いや、あと20分くらいありますよ。” “移転前のビル、入れるかな?” “入れたとしても、さらに中に入らないと見られないですし…” とその時、 “あ、この(移転前のビルの隣の)ビルの階段から見られるかもしれない。ちょっと行ってみてくる。” そう言って、私は階段で上がれるところまで上がっていった。 だが、最上階とそのもう1つ下の階にはすでに先客がいた。 あきらめて帰ろうとしたその途中、 “あ、このビルからなら見られるかもしれない。ちょっと行ってみてくる。” そう言って、私は階段で上がれるところまで上がっていった。 屋上まで上がっていった私は先客がいないことを確認したのち、“OK,OK!”と言って3人を呼んだ。 だが、なぜか3人は来ようとしなかった。 ![]() 私は、“おい、あと5分だぞ!!”と言って3人を呼んだ。 だが、3人の中の1人が“おい、帰るぞ!”と呼び戻した。 そして、私達を誘った人が、“帰るよ!”と言ってきた。 だが、私は初日の出が出るまで残ることにした。 その後、下にいた3人は初日の出を見ることなく会社に戻ってしまった。 そして7時2分、私はついに初日の出を見ることができた。 ![]() いつもなら7時ちょうどに見ることができたが、建物が出っ張っている分2分延びてしまったようだ。 だが。その建物の角のほうから光るような形で初日の出を見ることができた。 その後、仕事が終わった私は、自分の人生の転機となった場所としている新宿歌舞伎町の神社と新宿二丁目の寺院に向かった。 私は毎年行くことにしているが、実は昨年は行かなかった。 というのも、昨年は明治神宮に行ったからである。 さて、気のせいか今年は全然人がいなかった歌舞伎町の神社と、二丁目の寺院に行った帰りに二丁目の中のある通りを歩いていた時のことだった。 二丁目には私にとっての思い出の店があったが、その店がいつの間にか閉店していた。 (看板が別のものに変わっていた) この2年間の間にいったい何があったのだろう… それより、あの社長は元気なのだろうか、非常に気になる… 悲しい気分になった私は家路に向かうことにした。 それにしても、私はなぜか1月3日にこれを書いている。 Michael Schumacherも40歳になったのか… #
by utmich
| 2009-01-03 12:14
| 出来事
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